ルワンダ報告会~私が見たルワンダ~ Report Presentation on Rwanda ~What I saw in Rwanda~

ルワンダ(ケニアもおまけで)報告会を、2月13日(土)13:30~、国分寺駅から歩いて5分の国分寺労政会館でします。
ご興味、お時間ある方は、ぜひいらしてください^^
I am going to have a presentation on what I saw in Rwanda (and Kenya) on next Saturday, February 13th, from 13:30 at Kokubunji Rosei Kaikan, 5 minutes from Kokubunji station. Everybody is welcome so please come if you are interested:)

砂川収穫祭・ルワンダ展 Sunagawa Thanksgiving + Special Exhaustion of Rwanda

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本日は砂川平和ひろばで、収穫祭がありました。砂川で採れた野菜、里芋、にんじん、だいこんを使ったけんちん汁が振る舞われました。

Today, Thanksgiving event was held at Sunagawa Heiwa Hiroba museum and Kenchin soup and Japanese special rice dish was provided for visitors. All ingredients were harvested in Sunagawa!

砂川で採れたもち米とごまで作られたお赤飯もありました。

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全て地元で栽培され採れた材料で作られた無添加のけんちん汁とお赤飯の味は別格であると、訪れた人々に大変好評でした。

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また、野菜収穫時に、人間による耕作によって手が付けられておらず、そのままの土色を残している関東ローム層の土と触れ合うことが出来たのも非常に興味深かったです。

Also, it was very interesting and meaningful that we found Kanto loam layer of the field.

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また、砂川での実りがルワンダにも届きますようにと、私がずっとしたかったルワンダの報告会も今回開かせていただくことができました。活発な議論をすることができ、いらっしゃってくださった方々には心から感謝しております。これからも頑張るので、よろしくお願いします!!!
At the same time, I finally could hold a report presentation about Rwanda. We held this events together with a wish that Rwandans receive harvest and “fruit” of Sunagawa.

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ルワンダ写真展の方は、12月13日まで砂川平和ひろばで開催されていますので、お時間・ご興味ある方は、ぜひいらして下さい。
Special exhibition about Sunagawa is held till December 13th. Please visit Sunagawa Heiwa Hiroba Museum!

もう一つの視点 ルワンダ大虐殺? Different Perspective on Rwanda Genocide 

pierre pean

フランス人ジャーナリストのピエール・ペアンは、ルワンダ大虐殺の真相を探っている。ルワンダ大虐殺は一方的ではなかった、つまり、大虐殺の対象であったとされているツチ族も、多くのフツ族の人々を殺害していたという報告が、国連を含め多くされている。ピエール・ペアンも、物事を多面的に捉えて、隠れている面を世界に発信しようとする人の一人で、6月27日、立教大学にフランスから赴いて見逃されてはいけない事実を語った。

Also thousands of Hutus were killed in Rwanda genocide, and this fact has been reported by UN and other institutions, a French journalist Pierre Pean said. Pierre Pean has been searching for the real picture of Rwanda genocide of 1994.

彼は主にアフリカの大湖地域、ルワンダ、コンゴ民主共和国、スーダン、ウガンダ、アンゴラなどの国がある地域で、なぜ紛争が長期化するのかについて、主に欧米の大国の役割の観点から公演をしたが、ここではルワンダに注目することにする。

20世紀まで続いた植民地時代が終わったと思いきや、実は今でもアフリカの現実の裏には、大国の存在が大きく潜んでいる。ピエール・ペアンによると、25年前ベルリンの壁が崩壊した冷戦後、アフリカに影響力を持つ国が変わっていった。それまで主にフランスやイスラムがアフリカに大きな影響力を持っていたが、アメリカとその同盟国はその影響力を弱めるために、アフリカ大陸を自分の都合の良いように再構成する政策に乗り出した。様々な表に出ない戦略的戦闘や経済的紛争を繰り広げ、反政府戦力、アフリカの国家、傭兵、多国籍企業、NGO職員、人権活動家やジャーナリストの一部を大いに活用することによって、アフリカとその豊富な天然資源の制服を試みてきたという。

After the Cold War, America and its allies started a lot of invisible political and economical strategies to conquer Africa against France and Islamic power using anti-governmental powers, international companies, NGOs, human rights activists, and some journalists.

ルワンダの大虐殺においても、フツ側はフランスが加担してツチの大虐殺が行われていたが、ツチ族のRPFも少なくとも2~4万人の市民を殺害したと、UNHCRなどから報告が出ている。なぜRPFが犯した罪が隠され、多くのメディアでツチ族が被害者としてだけ写されているかというと、主にアメリカの情報操作と、RPFのリーダーである現ルワンダ大統領ポール・カガメとアメリカの関係がある。

The fact that RPF killed at least 20,000~40,000 people during the genocide is usually hidden mainly because of the relationship between the current president of Rwanda, Paul Kagame, and the USA.

まずRPFは、ルワンダからウガンダに避難したツチ族のルワンダ人によって、ルワンダの隣国であるウガンダで結成されたのだが、彼らはルワンダに90年代に戻り始める前、人権擁護団体に、自分たちは犠牲者なんだと訴えるキャンペーンを行っていた。しかし実際は、ルワンダの政権を奪還するためにルワンダに侵攻していたのである。

Before invading Rwanda, RPF did a campaign saying that Tutsis were the victims of Hutus’ killing.

アメリカやイギリスは、反フランス・反イスラミスト勢力で、かつアフリカ大湖地域征服をもくろむカガメを支援した。ベルリンの壁崩壊から、世界はグローバル化し、また大きくIT化した。通信技術が発達し、透明性も上がったが、同時に情報操作もしやすくなった。ツチ族が被害者で、フツ族が加害者だというアピールは、ルワンダ国内外で大きくされている。

カガメ率いるRPFは、ルワンダに侵攻して政権を取った。1994年、フツ族もツチ族も多くの人々が殺されたその出来事は、「内戦」と呼ばれることも、「紛争」と呼ばれることもある。在ルワンダのJICAを訪れたときにも、職員は「大虐殺」とは言わず、「内戦」と言っていた。その後RPFはコンゴにも、逃げたフツ族を追って進行している。しかしその事実はほとんど知られていない。

カガメを始め、アフリカの複数のリーダーたちは、それぞれの戦争責任があるにも関わらず、今でも不処罰の文化を蔓延している。それを大国が自国のもくろみのためにサポートしている。

Even though some leaders in Africa has their war responsibility, they spread the culture of unfair punishment. What worse is that superpowers are supporting the unfairness for their own profit.

私がルワンダの大虐殺のリサーチをしていてRPFが大虐殺を終わらせたと多く聞かされていつも疑問に思っていたのは、「どうやって」終わらせたか、だった。

「大虐殺」という言葉に圧倒されてはいけない。裏に大国や、たくさんの意図が隠れているのが今の現実だ。紛争が、見えている敵同士の戦いではなかったりする。平和に見えているものが、実は平和ではなかったりする。きちんと自分で見て判断しなければいけない。事実を隠して、自分のことを棚に上げて、リベンジして、他に苦しむ人々を生み出して、そんなところから得られるものがほしいのだろうか?世界市民として、一人の人間として、何が一番大切なのか、考えなければいけない。

We should not be overwhelmed by the word “genocide.” A lot of selfish intentions are hidden behind. Conflicts might not be fights between visible enemies. Peace might not be real peace. We have to look into the real fact by ourselves. Is it really something to wish for if we need to hide the truth or revenge or hurt others to get that?

(参考:立教大学配布資料「なぜアフリカの紛争が長期化するのか?-大国の役割の観点から考える」

Reference: “Why are Conflicts in Africa Prolonging? –From the Perspectives of Superpowers’ Roles– Rikkyo University June 27, 2015”)

77 years old Japanese lady in Rwanda 77歳単身でルワンダで暮らす IZUBA照子さん

キガリで一人で暮らす日本人の方がいると聞いて、突撃訪問させて頂きました。

I got to know that there was a Japanese lady living in Kigali by herself, which is a very rare case, so I decided to visit her.

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何よりもすごいと思わされるのは、彼女が芯から生き生きしているということです。
The most impressive thing about her is that every part of her is lively.

彼女は20年以上前に日本で支援を始めた「ウムチョムイーザ(良い文化)学校」でボランティア教師として音楽の授業とピアノを教えていらっしゃいます。
IZUBA Teruko voluntary teaches music and piano at Umuco Mwiza school in Kigali, which she started support 20 years ago in Japan.
学校まで1時間かかるそうですが、年齢には負けず、毎朝7時に家を出てバスを乗り継ぎ、午後4時か5時に帰宅という日々を元気で過ごしていらっしゃいます。
It takes 1 hour for her to get to the school, which means she has to leave home at 7 and get back around at 5 pm every day changing buses, but she stays tough regardless of her age 74.

ピアノは、音大に通われていたとき以来にルワンダで弾いたそうです。とても力強くエネルギッシュにピアノを弾かれます。一番印象に残っているのはトルコ行進曲で、一緒に訪問したルワンダのアーティストであるマニ・マーティンやアレックス・ブワナクウェリも、ルワンダで高齢でピアノをこんなにもすらすらと弾く人間は見たことがないと、興奮していました。
The last time she played piano before she started playing it in Rwanda again was when she was a student at a college of music. Even so, she played energetically and smoothly. Her Turkish March was especially impressive. Mani Martin and Alex Bwanakweri, who are Rwandan artists, were so excited because it is rare to see a person who is very good at playing the piano.

しかしやはり、年齢的にはかなりハードな毎日だそうです。ルワンダで最も話されているのはキニアルワンダ語、フランス語、次いで英語ですが、IZUBA照子さんは、ルワンダに来る前、そのうちのどれも話せませんでした。74歳のおばあさんが、現地の小学生にまじって英語を学んだそうです。困難な事も多々あるそうですが、「それだからこそ生きている実感があるので、それをどのように解決し処理するかを考える事から、アイデアや知恵が生まる楽しさを持つ事ができるでしょう。苦も楽も表裏一体・・・・・・・・」とおっしゃいます。
Nevertheless, she feels hardships in her life especially because of her age. Languages spoken in Rwanda are Kinyarwanda, French, and English, but she could speak none of them before she came to Rwanda. 74 years old lady studied English with local Rwandan elementary school students. Life is not easy but she says “thus I feel alive and can enjoy bearing ideas and wisdom through hardships. Pleasure is pain, and pain is pleasure.”

もうすぐ移住満3年の日を迎えられますが、ただの1度も病気やケガには縁なく、大好きな子供達、先生達と共に過ごす事で新たなエネルギーが湧いてくる日々を、感謝し楽しんでいるだけだといいます。
It is going to be three years since she moved to Rwanda. She has never gotten sick or injured, and she just enjoy and appreciate her everyday life gives her energy with children and teachers she loves.

傍から見ても本当に毎日生き生きと元気にポジティブに楽しんでルワンダで生きていらっしゃる。その源はどこにあるのでしょうか?
Everyone agrees that she enjoys her life in Rwanda so lively and positively. What makes her like that?

ルワンダの教育を考える会

http://www.rwanda-npo.org/activities/rwanda/

IZUBA照子さんは、2012年、彼女が74歳の時にルワンダに永住すると心に決めて日本を発ちました。ルワンダでの永住を決める前、彼女はルワンダを短期訪問したことがあるだけでした。
It was in 2012 that she decided to move to Rwanda for good and left Japan when she was 74. She had visited Rwanda only for a short stay before that.

一番最初のきっかけは、彼女が30代の頃起きたイスラエルのテルアビブ空港での日本赤軍乱射事件(1972)で、パレスチナの子供達がどれほど悲惨な状況に置かれているかを知ったことが、途上国の子供達の教育支援の原点となったことだそうです。
Lod Airport Massacre of 1972 in Israel by Japanese Red Army shocked her and she came to know how hard situation children in Palestine are in. Then she started supporting education for children in developing countries.

日々の暮らしの中に、自分の人生に使命や元気の源を与えてくれるきっかけが、世界には溢れているのですね。
The world is filled with triggers that give people a mission in life and energy for life.

その後アジア諸国の支援を長年続けた後、2002年アフリカの子供達に初めて思いが向いた時出会ったのが、郷里福島市で母国ルワンダの
子供達の学校建設をしているマリールイズだったそうです。
After she kept providing supports for Asian countries for a long time, she met Marie Louise, who was establishing school in her country Rwanda for children, in her home town Fukushima in 2002. She started to feel close to Africa as well.

マリールイズは、IZUBA照子さんが今ボランティアをしている 「ウムチョムイーザ学校」を建てて、宗教や政府からは独立した独自の教育プログラムを提供しています。

Marie Louise established Umuco Mwiza school which IZUBA Teruko is doing volunteering today and provides special educational program independently from the government or any religions.

マリールイズ

IZUBA照子さんは、まだその頃はアフリカ大陸に全く無知であったそうですが、「ルワンダの教育を考える会」が発行したルイズの紹介記事を一読した後、「この方の全てが信じられる」と何故か直感したのだと言います。

IZUBA Teruko was almost ignorant about Africa when she first read about Marie Louise on a report published by NPO “Think About Education in Rwanda.” However, she intuitively felt that she could believe everything about her.

IZUBA照子さんは、当時NPO法人を設立したばかりのその「ルワンダの教育を考える会」に5月に入会し、入会2カ月後にはルイズのルワンダ帰国に同行して、内戦後8年の殺伐としたキガリで10日間ホームステイをされました。その時、赤茶けた地面と砂ぼこりがまう校庭で遊んでいた
数人の子供達に出会った事が、ルワンダ永住に繋がる第一歩だったと言います。

IZUBA Teruko joined the NPO “Think About Education in Rwanda” soon later which was an organization just established as NPO in Japan. Two months later, she visited Rwanda with Marie Louise for 10 days and saw still savage Kigali, after eight years from the civil war, the genocide. She met some children there playing on schoolyard of reddish brown in dust, and that was the first step for her to decide the permanent stay in Rwanda.

直感を信じて、会社に勤務する傍ら、「ルワンダの教育を考える会」の理事になり、ルイズとの道を歩まれてきました。彼女の直感は間違いありませんでした。
30代にスタートした子供達の教育支援という川の流れが、何十年という時の流れの中で、紆余曲折しながらも絶える事なく流れ続けて、ルワンダという国にたどり着いたという、運命的な思いを彼女も感じています。

She believed her intuition and kept working for “Think About Education in Rwanda” while working full-time for a company.

She thinks it is like the river of educational support for children that started when she was in her 30s. It was meandering but it kept running for decades of her life without any stop and finally reached Rwanda. She feels her intuition was right and feels also destiny,

「2002年の初訪問、今では想像もできない汚い埃まみれで殺気だったキガリに滞在しながら、1度も嫌な国と思った事がなく、子供達の
キラキラ輝く瞳、屈託なく笑う笑顔と笑い声に魅了されてしまったのです。」

There are some difficulties in life especially comparing to one in Japan, but she has never taken them as difficulties. She first tries to do by herself even what she feels impossible. But she does not forget to be honest and appreciate when she finds what she cannot do by herself.

74年の人生の中で起こった様々な全ての事が繋がって、IZUBA照子さんは2014年に一切を整理してルワンダへ移住しました。「文化も生活レベルの違いもある中、英語、ルワンダ語の会話もできない、ないない尽くしの日々、出来る事は全て自分でする、出来ないと思った事でもいろいろ工夫してやってみる、どうしても出来ない事は素直に助けてもらうを心情に、トライトライの連続です。しかし1度も辛い苦しいと思った事がなく、困難であっても苦難にならない、ルワンダの良いも悪いも全て含めて大好きと言い切れる自分に、我が事ながら不思議でなりません。だから運命的なものと思うほかありません。」

She was fascinated by children in Rwanda with shiny eyes and carefree smiles. She can clearly say that she loves Rwanda with everything of it including good and bad, and she feels interesting about that.  Therefore, she thinks it is her destiny.

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IZUBA照子さんは、いつも自分と正直に真剣にじっくり向き合っていらっしゃいます。他があるからこそ自分があるのだということも心にいつも留めていらっしゃいます。そして自分で決めます。強い芯を持っていらっしゃいます。誰もがIZUBA照子さんのように運命を感じても感じていなくても、生き生きと生きることが出来るはずです。その秘訣に、年月をかけて迫りたいと思います。

She always faces to herself seriously, honestly, and carefully. She values others’ existences to know own existence as well. And she decides by herself. She has something very strong inside. Everybody should be able to live lively like her feeling destined or not. I am going to search for the key that each person can have life with hope and happiness.

Impressive Voices from Kigali Genocide Memorial キガリ大虐殺記念館に刻まれる、平和・公正を求める印象的なメッセージ

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A girl called Therese whose father was a genocide committer says:

“When my dad appeared at Gacaca court, I tried to help him accept and ask for forgiveness but he didn’t. He went back to prison. I continue to visit him there.”

父親が大虐殺首謀者だったテレサという名の少女は言いました:

「私の父が裁判に現れたとき、私は父に、事実を受け入れて許しを請うように説得しようとしました。しかし父はそれを聞き入れず、また刑務所に戻って行きました。私は父を訪れ続けます。」

On the wall of the memorial:
“Genocide is likely to occur again:
Learning about it is the first step to understanding it.
Understanding it is important to respond to it.
Responding to it is essential to save lives.
Otherwise “Never again” will remain “Again and Again””
記念館の壁には、作者不明の悲劇根絶への能動的な姿勢を求める声:
「大虐殺はまた起こりそうである。
大虐殺について学ぶことが、理解への第一歩である。
理解することは、インプットしたことをアウトプットするのに重要である。
アウトプットすることは、命を救うのに不可欠な事である。
そうでなければ、「もう二度と」は「また」であり続ける。」

“All of us are Rwandans here.” -students at Nyange secondary school:
Three years later the genocide on March 18th in 1997, Hutu extremists who fled to Congo when RPF took control over Rwanda at the end of the genocide attacked a secondary school near the border with Congo. Since the Hutu extremists wanted to kill Tutsis, but students were not separated by race, so the extremists told students to tell to separate. However, students said:
“All of us are Rwandans here.”
Then, all of them were killed.
「ここにいる全員が「ルワンダ人」です。」ーニャンゲ高校の生徒達:
大虐殺から3年後である1997年3月18日、ルワンダ愛国戦線が大虐殺の終わり頃ルワンダを制圧したときコンゴに逃れたフツ族過激派が、コンゴとルワンダの国境線付近にある高校を襲った。彼らは、ツチ族撲滅に来たのである。生徒達に、民族別に分離するよう指示した。しかし、生徒達は言った:
「ここにいる全員が「ルワンダ人」です。」
その生徒達は殺されてしまった。

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What is important is what we do after we get to know these facts. Learning from history and being active for betterments of current society are responsibility of modern global citizens. Only people can build society without oppression and tragedies. When you cannot see the value of something, you can create the value for better.
これらの事実を知って重要なのは、この後私達がどうするかである。歴史から学び、今日そして未来の世界がより良くなるように、学んだ事を生かし考えて行動することは、一人一人の責任である。人々は、抑圧や悲劇のない社会を作ることができる。何かの意味を見いだせない時は、その意味を作り出すことができる。

A Survivor of Genocide: Charles Habonimana 大虐殺生残者:チャールズ・ハボニマナさん

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Mass killings happened several times especially in 1955, 1963, and 1973 before the genocide in 1994. Many of Charles’ relative exiled to neighboring countries such as Uganda. Charles stayed in Rwanda with his family, but most of his family was killed by his neighbors in the genocide in 1994. He was12 years old at that time.
1994年に大虐殺が起きる前にも、1955, 1963, 1973年などにもフツ族によるツチ族大量殺人が実行されていました。チャールズの一族の多くはウガンダなどの隣国に非難しましたが、チャールズは1994年の大虐殺当時12歳、家族と共にルワンダに残っていました。

He have thought he was dead several times in his life. When his Hutu extremist neighbor came to kill Tutsis, his family, he was also hit his head by club. His father was murdered with traditional arms.
彼は人生で何度も死んだ思いをしたと言います。彼の家族は近所の人に殺されました。民族が違うということだけで、メディアによって洗脳されてしまった知り合いに殺されました。彼は頭を棍棒で殴られ、死んだと思ったそうです。彼の父親も、その時棍棒などの伝統的な武器によって殺されてしまいました。

When his mother was taken away, he was beaten up to the point that he was thought to be dead. He never saw his mother.
彼の母親は連れ去られ、その時彼は死んだと思う程叩かれたそうです。

He was serving Hutu as a slave when RPF came from Uganda to stop the genocide by extremist Hutu in July. Charles was taken to exile from Rwanda with Hutu because he was thought that he was going to speak out.
ルワンダ愛国戦線が1994年の7月にウガンダからルワンダに大虐殺を止めるために侵攻してきたとき、チャールズはフツ族の奴隷になっていました。フツ族の人々がルワンダから逃げるのに一緒に連れて行かれたそうです。

On the exile with Hutus, they met a former soldier of Habyarimana’s government (Hutu government until the genocide). The soldier called him snake scornfully and took Charles to forest. Charles thought he was going to be killed, so he decided to run away.
逃げる道すがら、ルワンダ元大統領であるハビャリマナ(フツ族)の兵士に遭遇しました。その兵士はツチ族であるチャールズを軽蔑して「ヘビ」と呼び(ツチ族の人は、洗脳のためヘビやゴキブリと呼ばれていました。)、森に連れて行ったそうです。チャールズは殺されると思い、走り逃げることを決心しました。

He just ran but not straight. He ran zigzag. The soldier was trying to shoot him. Then, he hid in a bush. He stayed in the bush until RPF found him. Charles thinks “if he really was not dead, he will never die.”
彼は遂に走り出しましたが、ジグザグに走りました。兵士が彼を射撃しようとしていたためです。彼はその後草村に身を隠しました。ルワンダ愛国戦線に見つけられるまでそこにいたといいます。チャールズは「その時死ななかったのなら一生死なないと思う」と言いました。

He was taken to an orphanage and grew up to be a politician, and also to be the head of an organization to support post-students who are survivors of the genocide, GAERG. He said he would never escape from out cause, the genocide.
彼は孤児院に預けられ、成長し、今は新しい政府のために働いています。GAERGという、以前記事に書いたAERGという大虐殺生残者である学生支援団体の兄弟団体の会長でもあります。彼は、全ての根元、大虐殺から決して逃れないと言いました。

A report will be continued on GAERG and his current view and life.
GAERG、彼の今の生活と考えについての記事が続きます。

Article about AERG (AERGについての記事はこちら):

https://universevoicemosaic.wordpress.com/2015/04/20/aerg-association-of-student-survivors-of-genocide-大虐殺学生生残者協会/

A Survivor of the Genocide in Rwanda in 1994, Margret Mougarita Kanzougire (45) ルワンダ大虐殺生残者、マーガレット・モウガリタ・カンゾウギレさん

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In the beginning of April in 1994, houses in the area she had lived started being set a fire and Tutsis were killed by extremist Hutu, so her family fled from their house. She was 25 years old pregnant with 2 children and her husband.

1994年の4月の始め、彼女が住んでいたエリアの家が焼かれ始め、ツチ族の人間がフツ族過激派によって殺され始めた。彼女の家族は非難することに決めた。その時彼女は、2人の小さな子供達を連れた妊婦だった。

They escaped to a church in Mukange, a city in Eastern province, and she found a lot of people fled from their home in many different places. However, there was no food.
彼女の家族はルワンダの東地区にあるムカンゲという都市にある教会に逃げてきた。そこには、ルワンダの様々な場所から人々が非難してきていた。しかし、そこには食糧が無かった。

It was 9th of April when first militia attacked the church. At this time, the militia had only traditional weapon so they did not manage to break into the church.
4月9日、その教会はフツ族過激派による最初の襲撃にあった。しかしその時は、襲ってきたフツ族過激派の市民兵は伝統的な武器しか持っていなかったため、レンガ造りの教会を破壊して入り込むことは出来なかったらしい。

3 days later, the militia came back with guns and oil. They threw oil into the church and started burning it with people in it. Magret said she saw blood, organs, and parts of bodies everywhere.

3日後、フツ族過激派の市民兵は銃とガソリンと共に戻ってきた。彼らは教会の中にガソリンを投げ入れ、火をつけた。マグレットはそこらじゅうに血や内臓、体の部分が散乱しているのを見たという。

In the morning of the following day, the militia got able to get into the church with spires, clubs, and swords, and they killed Tutsis. Somehow Magret survived but she said she did not know how. Some weak people were not targeted to kill.

次の日の朝、市民兵は弓矢やこん棒、刀を持って教会の中に入り込み、ツチ族の人々を殺し続けた。マグレットはどうやって自分が生き残ったのか分からないという。少数の弱者は標的にされなかったらしい。

She was told to go back home, but she found murder happening outside the church immediately, so she hid in bushes. She kept hiding fighting against hunger and thirst until RPF came to rescued her.

彼女は家に帰るように言われたが、教会を出てすぐ殺人を目撃したため、草むらの中に身を隠した。空腹とのどの渇きと闘いながら、ルワンダ愛国戦線が助けに来るまでそこに隠れ続けたらしい。

After the genocide, she worked hard and regained hope for future. She said religion, Christianity, helped her as well.

大虐殺の後、彼女は小さな子供たちのために必死に働き、未来への希望を取り戻した。彼女が信仰しているキリスト教にも助けられたという。

She thinks love and good education which teaches respect differences and others are important. Also family has responsibility against crimes, she said.

愛と、違いや他の人々を尊重することを教える良い教育が重要だと、彼女は言う。また、犯罪が無い社会のためには、家族にも責任があると語った。

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During the interview, children gathered and listened to her story together.

インタビュー中、子供たちが集まってきて、一緒にマグレットの話に耳を傾けていました。

Why Rwanda is a Very Safe Country? ルワンダの安全はどこから来ているのか?

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It is usually said that Rwanda is a safe country and had low crime rate. It is safe to walk outside at night for even women in most places.

ルワンダは犯罪比率が低く、平穏で安全な国と言われている。確かにそうで、女性が夜外を歩いていても大丈夫だと、在ルワンダ日本大使館の村田絵梨子さんも言っていた。

It seems doubtless that each Rwandan works for peace and harmony in his or her everyday life. They try to have no conflict. This is where I felt similarity with Japan.
ルワンダ人一人一人が平和を願って毎日それを体現しているのは疑いのないことだろう。衝突を避けようとするのは、日本人と似ているところだと感じた。

Also, security control in Rwanda is very strict. Especially in the evening, soldiers are standing with guns on streets in every few hundreds meters. When people see such force that often, they behave themselves without consciousness.
また、ルワンダの安全保障管理はとても厳しい。特に夜は、軍人が銃を持って数100mおきに立っており、軍人や銃を見慣れない日本人はとても威圧感を感じるかもしれない。そのような状況で、大抵人々は無意識に行儀良く行動するのではないだろうか。

Having Many Authority in Public → Few Crimes = Safe?
公共の場に多くの軍人を置くことによって得られる安全は「本当の安全」と言えるのだろうか?

Does Rwandan government trust Rwandans?
ルワンダ政府はルワンダ人を信用しているのだろうか?

Being kept an eye on every minute, even if Rwandans do not care anymore because that is their everyday life, can they act truly to their mind with confidence?
これが日常だから意識されていないかもしれないが、常に監視されている中で、自分に自信を持って言いたいことが言えるだろうか?やりたいと思うことが出来るだろうか?

Today’s leading party of Rwanda, RPF, Rwandan Patriotic Front, is very powerful. They emphasize that good strong leadership is important to maintain peace and harmony, and this emphasis is widely and deeply overspread among Rwandans. Even people work for genocide memorials throughout the country are sent from the government.
現ルワンダ政府を率いる政党であるルワンダ愛国戦線(RPF)は非常に強力な政党だ。良いリーダーが強いリーダーシップを持っていることが国の平和と調和を保つためには必要だと強調しており、その考えは国中のルワンダ人に広く浸透しているようだ。特に、大虐殺記念館などの機関には政府から人間が派遣されており、情報コントロールの徹底さを感じた。

Hatred toward Different Race/Ethnicity Remains and Still Fear of Violence まだ残る異人種攻撃

It is definitely true that Rwanda has succeeded in reuniting the people. People much less differentiate others with race or ethnicity. Crime rate is comparably low. The whole country promotes peace. However, some people still try to kill people with different race especially during the remembrance period of the genocide. It seems this year was the first year after the genocide that no murder happened during the remembrance period. Last year, some people were murdered. This year, even though it did not reach a loss of a life, a man tried to kill Tutsi people with knife. Being in the country during the period, I was so scared and also shocked.

大虐殺から21年経ち、ルワンダは確かに国民を統合させるのに成功してきた。人種差別はとても少なくなった。犯罪比率も低い国になった。国全体で平和を達成していこうとしている。しかし、特に大虐殺記念の週の時期、異なる人種を狙っての殺人が、まだ起こるそうだ。今年が大虐殺後、事件はあっても殺人には至らなかった最初の年らしい。去年はまだツチ族の人がフツ族の人によって殺されたそうだ。今年も、ツチ族の人が刃物で狙われたらしいが、殺人には至らなかった。大虐殺記念の週にルワンダにいてこの事実を知り、私は正直とても衝撃を受け、また恐れた。

Why people still try to kill others even though equality has been largely promoted in the entire country? According to a speaker at the commemoration in Ndera, it is usually Hutu try to kill Tutsi still even though the government has been trying to reduce racial hatred through education including informal one outside school. Probably some people still just do not understand that all lives are precious, and some people see that justice is incomplete yet. Have all killers and people hurt others of all sides judged equally? I would like to believe that all people have the ability to think about others.

国全体で平和を謳おうとしているのに、どうしてまだ人種差別による殺害が起きるのか。ルワンダ市内のンデラ区長によると、フツ族によるツチ族の殺害が多いらしい。政府は、記念式典など学校以外での教育を通しても、人種差別の撤廃を試みているにも関わらず、まだ劣悪な事件が起きる。平和は、公正がすべての立ち位置の人々にとって実現されないと、成立しないようだ。大虐殺実行犯のフツ族は裁判にかけられるようだが、ツチ族の行為については正義が問われていないようで、本当の平等が実行されていないようである。

Hatred and kinds of violence exist many places in the world. I hope this report is not going to be something makes people scared of or criticize Rwanda but to be something makes people think about own country and own behavior.

偏見から他人を傷つける行為や差別は世界の至るところに存在します。この投稿によって読者がルワンダを恐れたり批判したりするのではなく、自国や自身の行動を振り返ってくれることを願っています。

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Food in Rwanda ルワンダでの食べ物

012大体スーパーにベーカリーのようなセクションがあるのだか、必ず見かけるのは、サムサという三角形のひき肉や野菜が中に入っている揚げ物みたいなもの

ドーナッツやミートボールもよく見る

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Isonbeという緑色の食べ物と、Intoryiという野菜のトマト煮込みのような食べ物を、ご飯とじゃがいもと一緒に食べる。

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手前左にあるのはチャパティ。ナンを薄く小さくしたような感じ。

他にも、豆やイモ類の料理が中心らしい。